秀頼の妻『千姫』

秀頼の妻『千姫』

『茶々 天涯の貴妃』で千姫を演じた谷村美月が好演して高い評価を得ています。谷村美月はこの作品と『檸檬のころ』『魍魎の匣』で、第3回おおさかシネマフェスティバルで助演女優賞を受賞しています。千姫も嫁いだ先の大阪城で落城を経験しています。その意味では浅井三姉妹と同じく波乱万丈の人生を送りました。千姫もとても綺麗な姫君でした。

千姫

生まれた時から血筋にかけてはピカイチ。千姫の曾祖父・織田信秀と、祖母にあたるお市の美貌と聡明さを受け継いだ美しい姫君でした。政略結婚で7歳で豊臣秀頼のところへ嫁いでいますが、夫の秀頼とも大変仲が良く千姫が女性の黒髪を整える儀式を千姫にしていた様子を侍女が見ているほど大変仲が良い夫婦でした。

ところが、秀頼が可愛くて可愛くて仕方がない淀殿は2人が仲睦まじいのが面白くなかったからか。それとも最初の千姫が嫁いできた頃は、豊臣家の方が上の立場でしたが関が原の合戦で徳川家康方の勝利となり、秀頼がまだ幼いことを理由にまず家康が一旦将軍となり、時が経たら秀頼に譲るというのを反故にして秀忠に将軍の座を譲ったのが、淀殿からみると許せん・・と思ってしまうのも分かりますが、この頃から徳川家より嫁いできた千姫をいじめるようになりました。

淀殿のイジメ

千姫はとても温厚な性格の姫でした。秀忠と江の最初の子ということもあり、祖父の家康や父の秀忠から大変可愛がられていました。そして弟の家光とも姉弟仲はとても良好だっようです。豊臣家の大阪へは7歳の時に嫁いでいます。もちろんその頃は、豊臣秀吉も在命中だったので、後継ぎの秀頼のことを大変きにかけていたため、徳川家から千姫が嫁いできたことで、これで豊臣家と徳川家の結びつきが強くなり胸をなでおろしていたことでしょう。

ところが、秀吉が亡くなってから徳川家康の大反撃が開始します。淀殿からすれば面白いはずもなく、徳川から嫁に来た千姫のイジメが開始しました。とても仲の良い夫婦ということもカチンときていたのかもしれません。秀頼と千姫との間に子供ができないことを「子供産む気がないんじゃないのかしら?」と嫌味をタラタラいったり、あえて秀頼のところへ美女をはべらせりといった嫌味あるイジメでした。

徳川家康が豊臣家に対して、激しく動いた時には千姫は淀殿や夫の秀頼と大阪城にいました。そして淀殿に「どうか命をお助けいただくようお願いしてまいります。」と嘆願するために大阪城から出ることを言った時には「あなただけ逃げる気ではないのですか。」といい嘆願はダメと一度却下されたようです。

大河ドラマ

大阪城落城から

家康は孫の千姫が可愛くて可愛くて仕方ありませんでした。もう大阪夏の陣で、大阪城は落城寸前になりました。千姫は秀頼と淀殿の助命を嘆願するために大阪城を脱出します。家康は孫の千姫をただ助けたい!!とその思いが強くつい「千姫を無事救い出す者があれば、千姫を妻に取らせよう!」と口走ってしまいます。

千姫は美人と誉れ高いため、それは妻にできるのならたとえ火の中水の中!とばかりに坂崎直盛が、燃え盛る大阪城の中から千姫を助け出します。火の中から千姫を助け出したため火傷を負いながらの救出となりました。実際のところは、大阪方の武将堀内氏久に千姫は護衛されながら、坂崎直盛の元へ送り届けられたそうです。豊臣方の堀内氏久ではありましたが、千姫を救ったことから下総国内で500石を給されて旗本として召抱えられていることから家康の千姫救出の喜びが伝わります。

無事、茶臼山に本陣を構えいる家康の本陣に着いた千姫は 秀頼母子の助命を祖父の家康に嘆願しますが受け入れてもらえません。そして豊臣秀頼と側室の間に生まれた娘が(後・天秀尼)も処刑されそうになった時には、自分の体を張って必死の助命嘆願を行いました。その結果、天秀尼は助けられたとされています。

家康と面会した足で岡山に陣している父・秀忠の元へと向かいました。父・秀忠は千姫の顔を見るなり「なぜ、そなたは最後まで秀頼とともに大阪城に留まらなかったのか。それが武家の妻務め!」と千姫を叱ったといいます。秀忠は娘・千姫を可愛がっていたので決して本心ではありませんが、徳川方の兵も亡くなっているため部下達の手前、厳しく千姫に対して出たのかもしれません。

大阪城は落城して、千姫の夫・秀頼も淀殿も亡くなりました。千姫は寡婦になり千姫の身の振り方を家康から依頼された本多忠刻が公家と千姫の縁組などを模索して縁組の段階までいた時に、突然千姫の縁組が決まりました。相手は姫路新田藩主・本多忠刻との縁組でした。

千姫は江戸へ向かった時のこと、伊勢の桑名では連日の雨で大変水かさが増水したため、桑名の渡しが渡れなくなってしまったため、千姫の一行桑名で足止めとなりました。桑名城主・本多忠政はあいにく不在でしたが、息子・忠刻が父の名代として千姫一行をもてなしました。そして雨が上がると、屋形船を手配して自ら千姫たちを尾張まで送って行ったそうです。

そこで千姫は本多忠刻に一目惚れをしたようです。この時千姫は20歳本多忠刻は21歳。年の頃も良い感じです。本多忠刻は武芸にも優れていました。武芸の師範はあの宮本武蔵だったことからかなりそれは一目惚れしてしまうのも仕方ないのかもしれません。祖父の家康は坂崎直盛が持ってきた縁談話を千姫に言いますが、千姫の様子から思いを寄せている人がいることを分かり、その想いを遂げてあげようと思ったのでしょう。あんな苦労をしたのだから、次こそ幸せになってもらいたいといったところからでしょうか、本多忠刻と千姫の婚姻を認めます。

面白くないのが、坂崎直盛のほうです。千姫のお輿入れをする行列を装って千姫を奪還しようと企てますが、その企ては事前に幕府に発覚して直盛は自害となっています。

千姫は元和2年(1616年)9月26日に桑名城へ10万石の化粧料と一緒にお輿入れしました。翌年元和3年(1617年)に本多家が播磨姫路に移封になった時に、8月28日に桑名を発ち姫路城に移り千姫は「播磨姫君」と呼ばれるようになりました。美男美女の夫婦で仲睦まじく暮らして、元和5年(1619年)に長男の幸千代が誕生して幸せいっぱいでしたが、幸せはそんなに長く続くことはなく、元和7年(1621年)に長男の幸千代が3歳で亡くなったのを始め、寛永3年(1626年)に夫・忠刻が亡くなり、姑・熊姫、母・江が次々と亡くなるといった不幸が続きました。そして本多家を娘・勝姫と共に出て、江戸に戻ることになりました。

江戸に戻ったのは、江戸幕府第3代将軍となった家光が姉の千姫を大変気にしていたため、家光の方か江戸に戻ってくるようにと促されていたのかもしれません。

江戸に戻ってから

江戸に戻った千姫は、江戸城に入り出家して名を天樹院と号しています。そして竹橋の邸で出家した後は娘と2人で暮らしていました。寛永5年(1628年)に娘・勝姫が父・秀忠の養女として播磨姫路藩第3代藩主・池田光政の元へ嫁いで、天樹院は一人暮らしとなりました。一人娘の勝姫が池田家に嫁いだことを大変心配して「天樹院書状」を送るほどです。池田光政と勝姫は、最初の頃はあまり良好な夫婦関係とはいえないとみられていましたが、その後は傍目も羨むほど仲の良い夫婦になったといいます。

寛永9年(1632年)に江戸幕府第2代将軍であり父の秀忠が亡くなりました。寛永16年(1639年)に池田光政と勝姫との間の嫡男・池田綱政(千姫の外孫)が誕生しています。

正保元年(1644年)に、迷信を避ける為に江戸城から移ってきた弟・徳川家光の側室・夏(後・順性院)と、その後生まれた家光の三男・綱重と暮らすようになります。。3代将軍家光から特に信頼が厚いうえ、家光の三男とも一緒に暮らすようになったことで、出家した天樹院は大奥で大きな権力を持つようになったといわれています。

そのため、婚姻に関しても幕府に対して介入もおこなっています。寛文5年(1655年)越前松平家(福井藩主・松平光通)の婚姻の時には、嫁側の越後高田藩の勝姫(千姫実妹:越後高田藩主松平光長の母)に依頼されたことから婚姻に関して口を出しています。明暦の大火で、住まいの竹端の邸が消失した時には、叔父にあたる紀州藩主の徳川頼宣の屋敷に、一時寄留することもありましたが、独り身になり江戸に来てからの生活はとても落ち着いた安定した日々をのんびり送っていたようです。寛文6年(1666年)に江戸で亡くなっていますがその時の将軍は4代将軍家綱の時代になっており享年70ですので、当時としても長生きでまさに大往生でした。豊臣家へ嫁ぎ、落城を味わってから約50年間。江戸での生活は幸せだっといえるでしょう。

今こそ、時代劇。