今も続く末妹『江』の血筋

今も続く末妹『江』の血筋

浅井三姉妹の長女茶々の子孫は後の代に残すことができませんでした。京極高次のところへと次いだ初は生涯妊娠することがありませんでした。ところが浅井三姉妹の三女は姉たちとはちがい、夫の徳川秀忠との間に多くの子をもうけています。その血筋は江戸時代から平成となった今も脈々と繋がっています。お市の方が三姉妹に言い聞かせたように「浅井と織田の血を絶やさぬように」との言葉がそのまま受け継いだのは、小督・江かもしれません。

小督または江

最初の結婚は佐治一成です。戦国時代は「家と家との結びつき」として「婚姻」でその結びつきを強くしていた時代背景ということもあり、最初の婚姻相手とは豊臣秀吉によって離縁させられています。今は婚約のみだったのは?という議論もなされるほど、とても短い期間の婚姻でした。2度目の婚姻相手となったのは、秀吉の甥・豊臣秀勝です。秀勝との間には娘・完子が生まれています。秀忠と婚姻するのは文禄4年(1595年)です。江の方が秀忠より6歳年上でした。

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浅井三姉妹の三女

浅井三姉妹は最初の落城で、父親を失っています。そして母・三姉妹と共に柴田勝家の元へ行き、そこで義理の父となった勝家と母を失っています。三姉妹が非常に仲が良かったのに理由には、様々な困難を共に過ごしていたからではないかと思われます。男の子の場合は、成長してから『親の敵』ではないですが反乱を起こす可能性もあり、また成人した若君を担ぎ出して反乱を起こす可能性が高いことから、戦で負けた場合は探し出されて処刑されるのが戦後の世の常でした。

浅井三姉妹にも男の兄弟がいましたが、長男の満腹丸は殺害されていて次男は出家することが前提で殺害を免れています。

江の最初の婚姻

越前の北ノ庄で落城となり、母と義理父勝家を失った浅井三姉妹は、秀吉によって保護されました。心中は微妙だったことと思います。敵方にあたるところに保護されたのですから。

江は秀吉の意向で婚姻の運びとなりました。相手は、尾張国知多郡大野領主で、織田信長の次男・織田信雄の家臣。そして従兄にあたる佐治一成と婚姻関係を結んでいますがそれはとても短い期間でしてた。なぜなら、天正12年(1584年)に、秀吉は小牧・長久手の戦で、織田信雄・徳川家康で戦っています。そして信雄方の佐治一成は秀吉の敵方・織田信夫の方へ付いて戦っているため早々と離縁の運びになりました。最初の夫、佐治一成は小牧・長久手の戦のあと、大野を追放されています。

江の二番目の婚姻

江が2回目の婚姻をした頃には、姉の茶々は既に秀吉の側室になったことが伺えます。もちろん2女の初も既に京極家に嫁いでいるので、秀吉は三姉妹の2人を茶々の元から離したうえで茶々を自身の側室にしたことが伺えます。

2回目の婚姻相手は、丹波国亀山城主(現:京都府亀岡市)の豊臣秀勝の元へ嫁ぎます。2番目の夫となった豊臣秀勝は秀吉の実の甥という縁戚でした。

秀勝は秀吉の統一事業に従い、九州征伐や小田原征伐に従軍し戦で着実に戦功を挙げていきました。そして天正18年(1590年)11月に、徳川家康の関東移封があります。家康は、駿河国・遠江国・三河国・甲斐国・信濃国の5ヶ国を召し上げられ、、北条氏の旧領をもらうかたちで移封され関東に移り、徳川家康が本城としてのは、北条氏が本城とした小田原城ではなく、江戸城を居城としました。

秀勝は家康の関東移封に伴って、徳川家旧領だった甲斐と信濃を与えられています。翌年の天正19年(1591年)に秀勝は岐阜に転封となっていますが、江は京都聚楽第の秀勝の屋敷に居住していたため、甲府や岐阜へは赴いていないと考えられています。秀勝は文禄元年(1592年)に、朝鮮出兵にも従軍しています。そして朝鮮出兵の際、、在陣中の9月に朝鮮国の巨済島(コジェド)で病死しています。江は秀勝との間に娘・完子が誕生しています。詳しい生年は不明になっていますが、おそらく文禄元年(1592年)もしくは翌年だったのでは。と考えられています。

江が出産した初子

2人の間の子供の完子は、江が再々婚した折に茶々の猶子(つまり茶々が後見人)として引き取られることになり、完子は後に同格の摂関家の九条家に嫁いでいます。この完子が婚儀をする時には、権勢をふるっていた淀殿が婚儀の準備を万事整えて嫁いだ京の人たちを驚かせているほどです。

その豪華さは、興正寺の夫人や娘たちが「九条家嫁娶見物」をするほど目を見張るものでした。そのうえ、淀殿の子で完子にあたるのは義弟となる秀頼の名義で、豪華な九条新邸を造営してもらうほどでした。

江の3度目の婚姻

秀勝が亡くなり、江は文禄4年(1595年)9月17日に、徳川家康の伏見において徳川家康の跡取りの秀忠と再婚します。このとき秀忠は10代の中頃で、江は20代前半。初めての子どもを姉の茶々に預けての婚姻となり、江戸へ嫁いでいきました。

秀忠は天正18年(1590年)に上洛していて、織田信雄の娘で、秀吉の養女の小姫と縁組みをしていましたが、小姫が亡くなっていたため婚礼には至っていませんでした。一説によると、秀忠は12歳で小姫は6歳での縁組だったといわれています。

江は、秀忠と結婚して子供を出産していますが、女の子が続いています。千姫・珠姫・勝姫と女の子が続いて、おそらくハラハラしたことでしょう。一番最初の子も女の子だったので、おそらく「女腹」とか女中たちに言われてたかもしれません。そしてようやく念願の男の子を生んでいますが、生後直ぐになくなってしまいました。

直ぐに亡くなってしまった男の子長丸の後に授かった子も、女の子。男の子を授かるために、おそらくいろんなことを試みたと思います。もちろん舅の家康からも猛烈なプレッシャーがあったのではないか?!とも思えます。

そして秀忠との間に念願の男の子を慶長9年(1604年)に授かります。この時、江は30歳の手前にさしかかり、秀忠は20代の半ばでした。そしてこの生まれた子こそが第3代将軍になる徳川家光です。家光の幼名は家康の幼少名と同じ「竹千代」を授かりました。後継を無事出産した江は、どれだけホッとしたことでしょうか。

これで紛れもなく、跡目を生んだ生母になりました。竹千代を出産したあとに生まれた子は女の子で、子がない初のところへ3ヶ月で養女としてもらわれていきました。そして、次に生んだのが男の子後の忠長です。秀忠との間には三男五女を出産しているというのが驚きです。

無事に男の子を出産して、後継の生母となり立場は安泰になった江ですが後に、家光の生母となる乳母と大バトルを繰り広げていくのですが、それも致し方ないのかもしれません。乳母は後継となる子に乳をやり実の子のように教育して育て上げるからです。戦国時代は男色が当たり前でしたが、特に家光はその傾向が強く自分自身も美しく化粧をしてしなをつくり、歌舞伎踊りの真似事をするほどどっぷりはまっていたので、生母の江からすると乳母・福(後の春日局)の育て方が悪い。といった所も思っていたのではないでしょうか。

浅井三姉妹の長女・淀殿が、大坂の陣で亡くなります。舅・家康と戦っていた姉をずいぶん心配していたことと思います。姉がなくなり、姉の淀殿が父・浅井長政の供養のために建立した養源院が、元和5年(1619年)に火災のため焼失したときには、江が願い出て、元和7年(1621年)に江戸幕府が再建しています。江は寛永3年(1626年)9月15日に、江戸城の西の丸で死去しました享年54歳です。姉の初の方がが三姉妹の中で一番長生きをしました。江が亡くなった時に夫の秀忠や子供の家光・忠長は上洛中のため、亡くなる時には会えずに旅立ちました。

秀忠と江の間の子

  • 長女:千姫(天樹院)…豊臣秀頼の正室になり、大坂夏の陣で、祖父にあたる徳川家康の命によって落城する大坂城から救出。
  • 次女:珠姫(天徳院)…前田利常の正室
  • 三女:勝姫(天崇院)…松平忠直の正室
  • 長男:長丸…すぐに亡くなる
  • 四女:初姫(興安院)…初子の所へ養女となり、京極忠高の正室
  • 次男:徳川家光…江戸幕府第3代将軍
  • 三男:徳川忠長…駿府城主→後に家光ともめ幕府の名により自害。
  • 五女:徳川和子(東福門院)…後水尾天皇中宮となり明正天皇の生母となる。
今こそ、時代劇。