浅井三姉妹の長女『茶々』

浅井三姉妹の長女『茶々』

和央ようかが『茶々 天涯の貴妃』で演じた茶々は、浅井三姉妹の長女で女好きの豊臣秀吉から一番の寵愛を受け子供を持った側室として権勢をふるいました。秀吉の正妻北政所や他の側室が子を持っていないことから、本当は秀吉の子ではないのでは?と渦巻く噂の中でも強く生き抜いた女性であることは間違いありません。

長女:茶々

三姉妹の中で一番長身だったと言われているのが茶々です。おおよその身長は170センチとも言われているのでかなりの高身長でした。サルとも呼ばれた秀吉はチビだったと言われているので、間違いなく茶々の方が断然身長が高かったと言えるでしょう。浅井三姉妹で高身長だったのは茶々だけでした。秀吉との間の子秀頼は、茶々に煮たのか大柄だったことが知られています。そして父も母も当時としては高身長で、織田信長も170センチと当時としては高身長だっため、浅井の血と織田の血を濃く受け継いでいるのではと思われます。

気の強い茶々

気の強い女性としてのエピソードが残っています。京極竜子と茶々との関係ですが、京極竜子の父は京極高吉、母は浅井久政の娘の京極マリア。京極家は浅井氏の主筋に当たる家柄です。秀吉の側室となる前は、若狭の守護武田元明に嫁ぎ2男1女を出産していますが、本能寺の変の後に夫は明智光秀の味方に付いたため、羽柴秀吉・丹羽長秀との連合軍に討たれて、京極竜子も捕られられました。捕られられた後、秀吉の側室になっています。そのため秀吉との側室になったのは、茶々より先です。そして年齢も茶々よりも年上でした。

京極竜子はたくさんいる側室の中でも、お気に入りの側室で彼女も大変な美女として誉れ高い女性でした。慶長3年(1598年)の春に、秀吉が諸大名を招いて行なった京都・醍醐寺(だいごじ)でのお花見の宴席でのことです。

秀吉から受け取る杯の順番を巡って、茶々と京極竜子がお互い口争いを繰り広げました。杯の順番では、秀吉の正室のおねが最初に戴き、次が後継の秀頼を出産した茶々、その次が竜子という順番でしたが、そこで「ちょっとよろしいかしら?」と意義を唱えたのは竜子です。

茶々と京極竜子は従姉妹同士です。そして茶々の2番目の妹のお初は竜子の弟の京極高次と結婚しています。京極家は名門の家柄で、茶々の生まれた浅井家は元々は京極家の家臣の筋でした。戦国時代の下克上で立場は逆転したとはいっても、京極家は立派な名門です。お花見に列席している家臣たちも、身分のことはよく知っています。

しかし、秀吉の子を産んでいる茶々は譲りません。そのためひと悶着ありました。竜子は秀吉の側室となる前に、子供を授かり出産しています。他の側室たちも子をなした側室はいません。どうして茶々だけが2回も妊娠して出産したのか?!秀吉の子ではないのでは?!絶対に怪しい…と腹の中で思っていたことが、杯の順番を巡っての諍いになったのでしょう。

大河ドラマ
事情があって買取をしてほしい、という深刻な悩みを持っていられる方にも弊社の買取サービスは適用されます。 一部の例外を除きまして不用品買取 訳あり品であっても高価買取を実現しております!

次女:初

結婚した京極高次との間に子供はいませんでした。そのため妹の小督・江と徳川秀忠との間の4女の初姫や、高次の妹の子、古奈などを養女としてました。また側室の子などを養女としたほか、血縁者や家臣などの養育にも積極的に関わりました。そして、初も母のお市の方の美貌を受け継いでいたため細身で大変容姿に優れていたと言われています。三姉妹の中で一番長生きしています。姉妹が敵味方に別れても、姉妹としての絆は大変強いものがあったので、一番長生きをした初は、茶々の最期と妹の姿を見ながら、いったい何を思ったのでしょう。

姉妹の間を奔走

天正15年(1587年)に、初は結婚していますが三姉妹が、両親が秀吉に討ち滅ぼされたため秀吉の庇護の元にいました。そして秀吉の計らいで、浅井家の主筋にあたる京極家の当主で従兄の京極高次と結婚しています。秀吉亡き後の慶長5年(1600年)に五大老筆頭・徳川家康と五奉行の一人・石田三成とが対立します。

京極高次は、西軍の石田三成たちに挙兵して西軍・三成側に就くと思わせながらがも、関ヶ原の戦いで大津城に籠城して徳川家康・東軍に転じます。結戦前に大津城を開城しましたが、西軍をしっかり足止めしたとの功績で京極高次は若狭一国の若狭小浜8万5000石を与えられます。

慶長14年(1609年)に、初の夫・高次と死別すると剃髪して出家。名前を常高院とします。そしてこの頃から茶々と秀吉の子で初からみると甥にあたる豊臣秀頼の豊臣家と徳川家康との対立が露呈するようになります。妹の江が嫁いだ先が徳川家康の子、徳川秀忠ということもあり、秀頼のバックには姉の茶々がついていたこともあり、常高院は豊臣方の使者として徳川家と豊臣家との仲介に奔走しました。

慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では、徳川側の阿茶局(家康の側室で才知に長け、奥向きの諸事一切を家康より一任)とともに、豊臣家と徳川家の和議を取りまとめることに成功して両家の和議に尽力しています。

そして慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で、豊臣家が滅亡すると秀頼の娘(後:天秀尼)の助命を家康に嘆願したとも言われています。そして時代が江戸になり徳川家の天下となると、妹の江とよく会っています。そして江が亡くなる少し前に、常高院は江戸を訪れ姉妹は再会して対談したといわれています。寛永10年(1633年)に京極忠高の江戸屋敷(現:港区虎ノ門)で亡くなりました、享年64です。

今こそ、時代劇。