徳川三将軍が将軍宣下した伏見城

徳川三将軍が将軍宣下した伏見城

「秀次事件」の後、指月伏見城を急ピッチで進めていく秀吉ですが、後を譲り隠居の身となった秀吉に子供ができたことで、甥の秀次が邪魔になったのでは?!とも言われています。実際に秀次が関白の座となったのは秀吉の嫡男・鶴松が天正19年8月に亡くなったことが大きく関係があります。秀吉は初めての実子にかなり喜んだのもそのはずで、養子した子も失っているため、かなりガックリきたようです。鶴松が亡くなった3ヵ月後に秀次は秀吉の養子となり、12月に関白に就任しました。

伏見城

隠居屋敷から大きく変わり、秀吉の本城への改修となった「指月伏見城」ですが、その当時近畿地方には地震が頻発していたこともあって、秀吉地震も改修中の伏見城にも地震対策に力を入れていました。地震対策に力を入れていたのですが、それを上回る大地震が起こりました。文禄5年(1596年)に起きた「慶長伏見地震」です。推定されるマグネチュードは7.0~8.0の直下型地震です。この地震での死者の数は京都や堺で1000人以上亡くなったといわれています。そして完成したばかりの「指月伏見城」も、天守の上二層が倒壊する大きなダメージを受けました。「指月伏見城」の城内でもたくさんの圧死者が出ており、約600名が亡くなったといわれています。

木幡山伏見城

「慶長伏見地震」が発生した時に、秀吉も城内にいました。大勢の死者がでましたが秀吉は無事でした。「指月伏見城」の建物としては、台所施設が大丈夫だったようで、秀吉は台所で一晩をすごし、夜が明けて指月伏見城から北東の1kmにある高台の、木幡山に仮の小屋を造ります。仮小屋で、秀吉も避難生活を送りました。そしてこの場所が「木幡山伏見城」となりました。そしてこの「大地震」という大きな災害を契機として、この年10月27日には「慶長」に改元されています。

伏見城は非常に大きな直下型地震に見舞われていますが、火災は起きなかったため、櫓や殿舎の木材などが再利用可能でした。そして地震が起きてから2日後の、7月15日には、「木幡山伏見城」の工事が着手されています。「木幡山伏見城」の本丸が完成したのは10月10日です。

ふたたび『城と秀吉』に書かれている内容によると、「7月に着手で10月に完成というスピードは、建設資材のかなりの部分が再利用されたからこそ可能だったものと思われる」としています。そのため、「指月伏見城」の木材などの様々な物をリサイクルすることで、早く築城できた速さのことを指摘しています。

ただ作事するために先立った大規模な土木工事が必要だったことから、これだけ早く完成したスピードの裏には、地震よりもさらに前に木幡山へ移転計画があったため、基礎工事といったことがすでに始まっていたからこそ、早く着手できたのでは。という推測することも可能です。実際に文禄3年1月の日付になっている木幡山城の縄張り図も残っています。

慶長2年(1597年)5月に、は天守閣と殿舎が完成しています。更に10月には茶亭が完成しています。築城が終わった「木幡伏見城」は、本丸の西北に天守閣があり、西方に二の丸、北東部に松の丸、南東部に名護屋丸、曲輪下には三の丸、山里丸等の曲輪を配しています。出丸部分を加えると12の曲輪が存在していました。

この城は、「名護屋城の縄張りにも似ている」ということが『城と秀吉』で指摘されています。そのため、この配置が秀吉好みの曲輪配置だったのではないのでは?!としています。この時期、伏見城の築城と並行して、名護屋城の築城、方広寺の大仏殿建設、大坂城の三の丸と惣構え、そして秀次を追放したため聚楽第の破却も行われていました。これだけのことが重なっているので、土木工事に費やした労力・財力を考えると、それは想像をはるかに超えるかなり莫大なものだっただろうと推測することが出来ます。

秀吉の入城は、慶長2年(1597年)5月です。天守閣が建設された時に豊臣秀吉が移ってきました。豊臣秀吉は伏見城が完成してから、大坂城と伏見城を行き来していました。晩年は伏見城で過ごすことが多かったそうです。五大老に「秀頼を頼む。頼む。」と秀頼と後事を託して、翌年慶長3年(1598年)8月18日に伏見城で亡くなりました。非常にもったいないことに、在城した期間はわずか4年でした。

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家康時代の伏見城

秀吉が亡くなった翌年、慶長4年(1599年)に豊臣秀吉の遺言よって後継の豊臣秀頼は正月に大坂城へ移ります。そして五大老の一人の前田利家が同じ年3月3日に病死ししています。徳川家康は石田三成をすぐさま3月10日に佐和山城へ追放すると、3月13日に留守居役として伏見城に入城しています。ところが徳川家康も同じ年の9月には大坂城に移っているため、伏見にあった大名屋敷のほとんどが大阪に移ってしまったため、伏見城の城下町はみるみる間に荒廃していきました。

徳川家康は、大阪城に移った翌年の慶長5年(1600年)6月に、会津征伐に動き出します。家康が動いた隙をぬって、小早川秀秋・島津義弘の連合軍は鳥居元忠が城代となっている伏見城を4万の兵で攻めていき、伏見城はこの2ヵ月後の8月1日に炎上して落城しています。

石田三成は、伏見城の城内の建物をことごとく焼き払ったと書状に示されていることなどから、秀吉時代に建造された伏見城の主要な建築はこの時にすべて焼亡したと考えられています。

家康が再建した伏見城

関ヶ原の戦いで豊臣方の西軍に勝利した徳川家康は、石田光成によって焼き払われた翌年の慶長6年(1601年)3月に入城します。そして、伏見城と二条城の再建を開始します。家康による再建は、秀吉時代の「木幡山伏見城」を踏襲されていますが、弾正丸、大蔵丸、得善丸、御花畑山荘と呼ばれている北西部の曲輪群とそれを取り巻く堀は放棄しています。

慶長7年(1602年)6月に、藤堂高虎が普請奉行に起用されてこの年の末頃には、伏見城の再建はほとんどが終わり同年12月には伏見城に帰城しました。家康によって再建された建物の瓦には、豊臣家の家紋や桐紋が使われています。このころには、大坂城に移っていた大名屋敷が伏見城に戻ってきましたが、関ヶ原の戦いの直後に伏見の城下町は焼き払われていたため、大名屋敷の跡地が東西両軍の大名に与えられたと考えられています。

いよいよ徳川家康によって江戸時代の幕開けとなった慶長8年(1603年)に、伏見城で徳川家康は、征夷大将軍の宣下を受けます。家康の以後、三代の徳川家光まで伏見城で「将軍宣下式」が行なわれています。

慶長10年(1605年)3月に、徳川家康は伏見城で朝鮮使節と会見しています。そこで、文禄・慶長の役で関係が悪化していた朝鮮と和議を成立させています。同年に御殿建設に伴って、徳川家康も本丸から西の丸に移ります。そして更に二条城に移りますが、本丸部分が完成する同年の慶長10年(1605年)8月20日には伏見城に帰城しています。

新しくなった御殿で徳川秀忠の将軍宣下が執り行われ、その後も作事は続けられましたが、駿府城の改築によって、翌慶長11年(1606年)頃には伏見城の作事も停止されていて、器材や屋敷も駿府城へ運ばれていっていました。

大坂の役の後しばらくは、二条城が将軍が参内した時の宿舎となり、伏見城が居館用として利用され続けていましたが、一国一城令の主旨からも伏見城と二条城の両城を維持するのは難しいとしたことから、元和5年(1619年)に、伏見城の廃城が決まって翌年から城割りが始まりました。元和9年(1623年)7月16日に、徳川家光の将軍宣下が実施されましたが、本丸部分に若干の修復をして将軍宣下が執り行われ、その後完全な廃城となりました。伏見城の天守は二条城に、そしてまた多くの建物は福山城・淀城に吸収されて、それ以外にも全国各地に移築されました。

徳川家康は征夷大将軍に就任後も、江戸城と伏見城を行き来していましたが、「在城期間を累計すると伏見城のほうが多いのでは?!」としています。江戸幕府も初期のころは「伏見幕府」といってもよいほど、徳川幕府の初期段階の伏見城の重要性が伺えます。

廃城後の伏見城

城跡一帯が開墾されて桃の木が植えられて「桃山」と呼ばれたことから、後に伏見城の通称として「桃山城」と呼ばれる由来になっています。伏見城跡は、伏見奉行所の管理になっていたため幕末まで立入禁止になっていたようですが、本丸跡などの主郭の部分は、後に明治天皇の陵墓(伏見桃山陵)とされているため、現在も無許可での立入りが禁じられています。

平成21年(2009年)2月20日に、宮内庁の許可を得た日本考古学協会によって伏見桃山陵の本格的な調査が行われました。敷地内に4~5メートルの盛り土がなされていることが判明していますが、城郭を記した歴史的文献にはその盛り土が存在していなことから、未発見の古墳ではないかともいわれています。

今こそ、時代劇。
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