映画撮影のため改修された伏見城

映画撮影のため改修された伏見城

東映がかなりの製作費をかけて『茶々 天涯の貴妃』の撮影に臨んでいますが、伏見城はこの撮影のためにお色直しが施されました。鯱や破風は金色に塗られ、高欄は朱も鮮やかに塗り直されました。そして外壁には装飾金具が取り付けられました。伏見城は豊臣秀吉が隠居所として建てたお城です。天下人の秀吉が隠居としてこの地にお城をたてことから、諸大名たちもこぞって屋敷を建てました。防備と水運のために大工事も行なわれた伏見城です。

伏見城

伏見城はの京都市伏見区桃山町周辺にあったお城です。現在の城跡は、江戸時代初期に破却された後、明治時代に宮内省の御料地とされていて、明治天皇桃山陵、昭憲皇太后桃山東陵となっているため、遺構調査も簡単ではないということもあり、年代によっては史料が不明な点も多くなっていますが、推定して復元することが試みられています。『城と秀吉』によると「伏見指月城がどのような縄張りだったのかについてはくわしいことはわからない」としていて、指月伏見城がどのような城だったかは不明になっています。

伏見城の概要

伏見という場所は、東山から連なる丘陵の最南端に位置していて、南には巨椋池が広がっているため水運で大坂と京都とを結ぶ要衝の土地でもありました。伏見城は3度に渡って築城されています。

最初の城は、秀吉の「朝鮮出兵」文禄の役が開始した後の文禄元年(1592年)8月です。豊臣秀吉が隠居した後の住まいとするために、伏見指月(現:京都市伏見区桃山町泰長老あたり)に伏見城の建設を始めました。

このとき築かれたものを「指月伏見城」と呼んでいます。後に近隣の木幡山に再築されたものは「木幡山伏見城」と呼ぶことで区別しています。さらに「木幡山伏見城」は、豊臣時代のものと、伏見城の戦いで焼失した跡に徳川家康によって再建された徳川時代のに分けられます。豊臣時代の伏見城は、とても豪華な様式だったことが伝えられています。

指月に築かれた「指月伏見城」は、築城開始されてから2年後の文禄3年(1594年)に秀吉が入城します。そしてそれから更に2年後の文禄5年(1596年)に「指月伏見城」は完成していますが、完成したその直後に、慶長伏見地震によって倒壊してしまいました。そのため、指月から北東約1kmの木幡山に新たな城が築き直されることになりました。そして「木幡山伏見城」は翌年の慶長2年(1597年)に完成しています。隠居の城として築いた秀吉ですが、「木幡山伏見城」が完成した1年後の慶長3年(1598年)に城内で亡くなりました。

秀吉の死後、秀吉の遺言によって豊臣秀頼は伏見城から大坂城に移ります。秀頼に代わって五大老筆頭の徳川家康が「木幡山伏見城」に入り政務を執り行いました。そして関ヶ原の戦いの際には、家康の家臣・鳥居元忠たち「木幡山伏見城」を守っていましたが、西軍の石田三成派に攻められて落城してしまい、その時に建物の大半が焼失しています。

その際に立てこもっていた徳川家の家臣たちが自刃した建物の床板は、家臣たちの供養も兼ねて京都市の養源院、正伝寺などで天井板として再利用されたとの言い伝えがあります。そこでは、今でも血天井として当時の生々しい痕を見ることができます。ただしこれは言い伝えなので、徳川家家臣たちの自刃した建物が焼失を免れた記録や移築を裏付ける資料がないため、信憑性は定かではありません。実際に、正伝寺の天井板はかつて科学的調査がされました。科学的調査の際には、「人血であることは確認できなかった」が「血液型は数種検出された」とする報告があされています。

焼失した「木幡山伏見城」は、慶長7年(1602年)ごろに、家康によって再建されましたが、元和5年(1619年)に廃城とされました。このとき、徳川時代の「木幡山伏見城」の建物や部材は二条城、淀城、福山城などに移築されました。「木幡山伏見城」の跡地には、元禄時代ごろまでに桃の木が植えられて桃山と呼ばれるようになり、現代では、「伏見城」は桃山城または伏見桃山城とも呼ばれるようになりました。

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最初は秀吉の隠居屋敷

伏見城の原形ともいえる施設があります。それは豊臣秀吉が天正19年(1591年)に、関白の位と京都での政庁聚楽第を豊臣秀次に譲った際に、自身の隠居所として伏見の地に築いた屋敷があります。隠居所としてのこの屋敷は文禄元年(1592年)8月11日に、秀吉が平安時代から観月の名所と知られる指月周辺を散策していた際に8月17日に場所を決定して、20日には着工が決められました。

次いで8月24日に区画割りが開始されて、9月3日には建設が始まっているため、かなり工事は急ピッチで進められたことが伺えます。そして同年12月には、秀吉が文禄の役で名護屋城在陣中にも、利休好みの趣向で造らせるようにとの指示を出しています。この際、聚楽城下から多くの町民が移住したと考えられています。現在も「聚楽町」「朱雀町」「神泉苑町」といった地名が伏見地区に残ってるからです。

『城と秀吉』によると、「伏見城の築城にあたり、はじめから秀吉が豪壮で華麗な城として築こうとしていたと考えるのは早計だと述べています。秀吉の当初の計画では、あくまでも隠居として、屋敷構にするつもりだったと思われている」とかかれているとおり、当初は「城」というよりは「邸宅」としての性格が強かったと考えられています。そして秀吉の隠居屋敷は文禄2年(1593年)9月に、伊達政宗との対面や徳川家康・前田利家との茶会に使われたりしていることから、隠居屋敷は概ね完成したと思われます。

指月伏見城時代

文禄2年(1593年)に入ると、日本と明との講和交渉が動きはじめます。そのため、明の使節を迎えたときに日本の国威を見せつける目的と、文禄2年(1593年)8月3日に拾丸(後:豊臣秀頼)が産まれたことで、捨丸に大坂城を与えると想定したことで、秀吉の隠居屋敷は大規模な改修が行われることになりました。

翌年の文禄3年(1594年)10月頃から、宇治川の流路を巨椋池と分離して伏見に導いて、その水が城の外濠となるように、城下に大坂に通ずる港を造り、巨椋池には小倉堤を築いて、さらにその上に街道を通して新たな大和街道とするといった、かなり大規模な土木工事が行われました。

伝えによると宇治橋を移して指月と向島の間に架けて豊後橋としたともあるため、都から大和・伊勢や西国への人の流れを全て城下に呼びこもうとした意図が伺えます。『戦国の堅城』では、「指月伏見城」は【交通の要衝を管制する政治・軍事施設として築城された。本拠の大坂と、朝廷に影響力を行使する聚楽第(甥・関白の秀次が所在する)の間に位置するお城として、二元統制を行う秀吉にとって、大変好都合な場所】としています。

秀吉の隠居屋敷は、大坂城に付随する隠居用の屋敷から、秀吉の本城へとこの改修で意図を変えたと考えられています。築城は文禄3年(1594年)から本格的に始まります。普請奉行には、佐久間政家が任命されて、石材は讃岐国小豆島から調達。木材は土佐国、出羽国からも調達されました。同年4月には、淀古城から天守、櫓が移建されました。そして同年10月には殿舎が完成して、翌年文禄4年(1595年)に秀次事件が起きると、7月には破却された聚楽第からも建物が移築されて、宇治川の対岸にある向島にも伏見城の支城、向島城が築城されました。そして、文禄3年(1594年)末頃から城下町の整備も行われました。

「秀次事件」で聚楽第が廃城となってから、聚楽第縁辺にあった聚楽町に住んでいた住民たちは町単位で伏見城下に移転させられたといわれています。

今こそ、時代劇。