絢爛豪華なお正月映画

絢爛豪華なお正月映画

お正月映画にふさわしい東映映画の豪華絢爛な映画が、2007年12月22日公開の【茶々 天涯の貴妃】です。主演は元宙組トップスター「和央ようか」が、2006年に宝塚を退団して初出演で初主演映画です。製作費は10億円ですが、そのうち1億円が衣装代にあてられているため戦国時代の豪華絢爛な衣装も映画の見どころのひとつです。映画を撮影した伏見城では撮影用に7000万円かけられて改修して撮影されました。

原作は、井上靖の「淀どの日記」です。時代劇に興味のない方でも、大阪夏の陣で徳川家康に攻めいれられた際に、大阪城と共に散っていった「茶々」もしくは「淀殿」といえばご存知の方も多いと思います。戦後時代の中でも特に美しいと誉れ高い「お市の方」の浅井三姉妹の長女「茶々」は、一番母に良く似ていてとても美人だったと言われています。

茶々 天涯の貴妃

クライマックスはやはり大阪城の炎上です。淀殿は大阪城と運命をともにしますが、「茶々」は豊臣秀吉の子を唯一出産した女性でもあります。戦国時代は数々の武将とそれを取り巻く女性が登場していますが、「淀殿」はドラマ「利家とまつ」や「大阪城の女」などでも秀吉の正妻「ねね(またはおね)=北政所」と、とかく比較されることが多くあります。その時には秀吉との子の秀頼を溺愛するあまりに、やたらと口を出し秀吉の政策にも干渉した悪女と描かれることが多くなっています。「ねね」は良い人で「淀殿」は悪女。

実際のところは、「淀殿」ほど過酷な運命に翻弄された女性では?!と思えるほど数奇な人生を送っています。浅井三姉妹の中でも、次女「初」三女「江」と比べてもひとり過酷な生涯を背負ったのでは・・と思うような壮絶な人生でした。

キャスト

茶々:和央ようか
…浅井三姉妹の長女。幼名茶々、後の淀殿。
はつ:富田靖子
…浅井三姉妹の次女。三姉妹の中で一番長生きをした。 
小督(おごう):寺島しのぶ
…浅井三姉妹の三女。「江」で知られている。3度目の婚姻相手が江戸幕府第2代将軍の徳川秀忠。
大蔵卿局(おおくらのつぼね):高島礼子
…淀殿、豊臣秀頼の乳母。
北政所:余貴美子
…豊臣秀吉の正妻。
お市:原田美枝子
…浅井三姉妹の母。浅井長政が亡き後、柴田勝家へ嫁ぐ。
おまあ:吉野公佳
…前田利家の三女。秀吉の側室になり「加賀殿」と呼ばれるようになる。
後藤基次:平岳大
…通称は後藤又兵衛(ごとうまたべい)。黒田家の家臣として名を馳せる。
長曽我部盛親:中丸新将
…長宗我部氏第22代当主
前田玄以:高橋長英
…豊臣政権の五奉行の1人。
根津甚八:辻本一樹
…真田幸村の家臣。
望月六郎:高木英一
…真田幸村の家臣。
毛利勝永:松永鉄九郎
…豊臣秀吉の家臣。
大野治長:近藤公園
…豊臣秀吉の家臣で、淀殿の乳母の大蔵卿局の子。
豊臣秀頼:中林大樹
…秀吉と茶々の第2子。秀吉の後を継ぎ天下人。
真田幸村:黄川田将也
…大阪夏の陣で、徳川家康の本陣まで攻め込み家康を追い詰めた。
きく:メイサツキ
…田舎娘の世話係
千姫:谷村美月
…豊臣秀頼の正室で、母親は浅井三姉妹の三女の小督。
本多正信:松重豊
…徳川家康の重臣。江戸幕府の老中。
徳川家康:中村獅童
…天下を統一に導いた三英傑のひとり。
豊臣秀吉:渡部篤郎
…天下を統一に導いた三英傑のひとり。
織田信長:松方弘樹(特別出演)
…天下を統一に導いた三英傑のひとり。
柴田勝家:谷口高史
…賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗れ、お市の方と自害。
京極忠高:真島公平
…若狭小浜藩の第2代藩主。妻は、江戸幕府2代将軍秀忠の四女の初姫。
京極竜子:魏涼子
…秀吉の側室。「松の丸」「京極殿」「西の丸殿」などと呼ばれた。
織田有楽斎:土平ドンペイ
…織田信秀の11男で、千利休に茶道を学び利休十哲の1人。

スタッフ

監督:橋本一
…1990年に東映に入社後、沢口靖子の「御宿かわせみ」で監督デビュー。戦隊ものから現代劇まで幅広い分野で活躍。
ヘッドプロデューサー:坂上順
…1962年に東映に入社後、高倉健主演『網走番外地』シリーズなどを手がけて『半落ち』『男たちの大和/YAMATO』などプロデュース。
原作:井上靖
…文化功労者、文化勲章受章をしている日本を代表する小説家。
脚本:高田宏治
…脚本家として時代劇からヤクザ映画や現代劇など執筆。
撮影:栢野直樹
…撮影監督として映画やテレビドラマなどで活躍。日本アカデミー賞2回受賞したほか、毎日映画コンクール、ヨコハマ映画祭でも撮影賞受賞。
照明:杉本崇
…照明技師として2007年に「憑神」で日本アカデミー賞を受賞。
録音:松陰信彦
…録音技師として日本アカデミー賞を3回受賞。
音楽:海田庄吾
…映画音楽やドラマ音楽など、サウンドトラックを手がけている。
コーラス:鈴木重子
…ブルーノート・ニューヨークで日本人ヴォーカリストとして初デビュー。ヴォーカリストとしては異色の東大法学部出身。

原作『淀どの日記』

歴史に「もし」や「たら」を言ってしまえばキリがありませんが、「もし秀吉が朝鮮を攻め入れることはせず国内の基盤をさらに強固にしてもう少し長生きをしていたら?」「家康がもし2年早くなくなっていたら?」などと考えると、淀殿・茶々の人生はもっと違ったものになったのではないのでは?!と考えてしまいます。「淀どの日記」は、秀吉の寵愛を受けて今まで子がない秀吉の子供を唯一2人も産んでいます。秀吉の子を産むことで、側室の中からひとつ頭を抜き出した存在になった茶々。しかしこの本では茶々・淀殿を「ひとりの女性」「ひとりの母親」として淡々としていながらも、優しい筆で女性として波乱の人生を歩いた茶々の生涯が描かれています。

本のあらすじ

近江の戦国大名・浅井長政の長女として茶々誕生しました。浅井長政氏の本拠地近江小谷城(現:滋賀県長浜市)で生まれ育っています。母親は戦国時代絶世の美女と呼ばれたお市の方で、織田信長の妹でもあります。

織田信長は足利義昭を奉じて上洛を果たして、天下統一を目指し天下に号令しようという野心を抱いていました。まず足がかりのひとつとして、近江を領有している浅井氏と同盟を結ぶ必要がありました。そのため、お市の方は政略結婚のため永禄10年(1567年)に18歳で浅井長政の元へ嫁ぎますが、浅井長政は立派な武将ということもああり、周りがうらやむほど、お市と浅井長政の夫婦仲は良かったと言われています。

小谷城

浅井長政とお市との間には、男2人女3人の合計5人の子供をもうけていますが、元亀元年(1570年)に浅井氏と同盟関係にあり関係の深い越前国(現:福井県)の朝倉義景氏を突如攻め入れたことから、お市の方と子ども達の運命は狂い始めます。浅井長政は、父親の浅井久政に説得されて、やむなく織田信長を背後から攻めて、織田軍を挟み撃ちにしようとしますが、浅井長政の裏切りをいち早く知った信長は、辛くも窮地を脱することに成功して、その反対に朝倉軍を一乗谷城の戦いで攻め滅ぼし、浅井氏へ軍を向けました。浅井軍は信長の大軍によって小谷城を取り囲まれます。

そして羽柴秀吉を使者として送り浅井氏に降伏を勧めますが、長政は断り続けて交渉は決裂。長政の父が小谷しろにて自害した後、長政は妻のお市と娘の3人を信長のところへ送り返し、息子2人を逃がして長政は29歳で自害します。

お市の方は27歳。長男の万福丸は10歳、茶々7歳、次女のお初5歳、三女の小督(おごう)は3歳、そして次男の幾丸は生後3ヶ月でした。

羽柴秀吉(後:豊臣秀吉)の手で、母や茶々・お初・小督とともに、お市の方の兄・信長のところへと送り届けられますが、兄の万福丸は羽柴秀吉に捕らえられて串刺しにより殺害され、弟の幾丸も行方不明になっています。物事がおぼろげながらも分かる茶々は7歳で、かつて住んでいた城を失うだけではなく父に兄そして弟を同時に失ってしまうのでした。

清洲城

お市の方と、浅井三姉妹は尾張国(現:愛知県清須)清洲城で、織田信包(おだのぶかね)の庇護を受けることになり約9年あまりを共に平穏に過ごしました。信長の待遇は大変よく、お市の方だけではなく三姉妹のことも気にかけていたようで、贅沢にそして平穏に暮らしていました。また織田信包も、「浅井家の血が絶えるのは忍びない」と言って、手元で保護して三姉妹を養育しました。

越前北ノ庄

織田信長が本能寺で明智光秀に殺害されると、お市の方は信長の遺臣たちによって織田家の有力な実力者で家臣でもある柴田勝家の所へと再婚させられます。お市の方と娘達も柴田勝家の居城・越前北ノ庄(現:福井県福井市)で暮らすことになりました。このとき茶々は16歳です。ところがこちらでの暮らしは短いもので、三姉妹たちの安住の土地ではありませんでした。

翌年の天正11年(1583年)、お市の方と柴田勝家が再婚してわずか1年足らず後に、勝家と羽柴秀吉が対立して賤ヶ岳の戦いがおこり、勝家は敗れます。北ノ庄城は父の浅井長政と同じくまたしても、羽柴秀吉(後:豊臣秀吉)の攻撃によって落城することになります。このとき、柴田勝家は57歳、お市の方は37歳でした。お市の方はこのとき、夫の柴田勝家と運命を共にすることを選び自害しています。

お市の方は三人の娘達の行く末を心配して、北ノ庄城の落城の際に、羽柴秀吉の庇護を受けるために書状を書いて送り、母としての娘達のことを気にかけていました。そして、三人の娘達には「浅井と織田の血を絶やさぬように」と言い聞かせていた事から、血統の存続を考えての行動をとったといえるでしょう。

茶々たちは、実の母・お市の方と義父・柴田勝家をこの戦いで失っています。そして前田利家の許に預けられた後には、近江の織田三法師(後・織田秀信)の許へ身を寄せることになりました。

秀吉の側室へ

茶々は19歳になり、織田家は美男美女の家系でも知られていますが、その中でもお市の方の美しさは大変評判ですが、その母親に似て茶々も匂いたつような美女へと成長した茶々は、実の両親と兄、そして義父をも殺した仇敵の秀吉と対面します。秀吉は茶々の母・お市に思慕を抱いていたこともあり、三姉妹の中でお市の方の面影を一番よく受け継いでいた長女茶々の美貌に目をつけます。

そして最初は浅井三姉妹の末妹・小督を佐治与九郎に嫁がせます。そして次妹のお初を京極高次に嫁がせてしまいます。妹たちを嫁がせることで外堀を埋めてから、茶々を聚楽第に召し出します。そして茶々を強引に自身の側室にしてしまいます。その時茶々は22歳。茶々は両親の宿敵でもあり、憎んでも憎みきれないほど仇敵でもある秀吉の側室として、生きなければいけなくなりました。

子を宿す

豊臣秀吉の正室は、ねね・北政所ですが、女好きの秀吉は他にもたくさんの側室がいます。側室たちと茶々との確執。もちろん北政所と茶々との確執。そして自分を抱く老権力者秀吉への深い憎しみ。茶々は、そんな中で孤独に耐え抜いて、秀吉の初めての子を産みます。最初に生まれた子は鶴松と名付けられ、出産を喜んだ秀吉から山城国淀城を賜ってから以後、茶々は「淀の方」と呼ばれるようになりました。

鶴松は天正19年(1591年)に亡くなっていますが、文禄2年(1593年)に拾(後・秀頼)を生みます。そしての亡き後は、秀頼の後見人として大蔵卿局たちを重用して豊臣氏の家政の実権を淀殿が握ることになりました。

(3歳で夭逝)、お拾い(後の豊臣秀頼)と2人の子供をもうけます。秀吉の跡継ぎを産んだ唯一の女性として、彼女は秀吉の寵愛を一身に受け、淀に城を与えられて、ついに権力を手中にしたのでした。時代の流れに翻弄され続けていた淀殿はついに天下人のお世継ぎを生んだ生母として安息した日を手にすることになりました。

大阪城落城

秀吉は自分の死が近いことを悟り、7月4日に居城の伏見城に徳川家康を含む諸大名を呼び寄せます。そして「秀頼を頼む」と念押ししつつ、さらに家康に対しては秀頼の後見人になるようにと依頼をしたほか、8月5日に五大老宛てに二度目の遺言書を記しそこにも「秀頼を頼む」としたためています。

そして遂に秀吉が無くなります。すると徳川家康が秀吉亡き後の次の天下を狙い動き出します。淀殿は、ひたすら我が子・秀頼を守ろうとしますが、淀殿が頼りとした武将は次々とこの世を去っていき、一番の家臣でもある石田三成が関が原の戦で敗れると、豊臣氏は一気に勢威を失います。大野治長、片桐且元といった無能な家臣たちは、野望に燃え策略に秀でた家康が次から次へと仕掛ける罠に、右往左往するばかりでなんの役にも立ちません。それどころか豊臣家を窮地に陥れていきます。

そうして遂に徳川家康が豊臣家に対して、トドメを指す意味あいが強い方広寺の鐘銘事件を仕掛け、そのまま大阪冬の陣が勃発します。豊臣方の武将たちは善戦して戦いますが、家康の講和を装った罠に見事に嵌まり、秀吉が心血を注いで築き上げ贅の限りを尽くした大阪城は、お堀を埋め立てられることになり、見るも無残な裸城となってしまいます。大阪城の掘りを埋められていく様子を天守閣から眺めた時に、淀殿は豊臣家の滅亡を予感するのでした。

明けて慶長20年(1615年)、大阪夏の陣で、再び家康に攻められた大阪城は落城します。大阪城は炎に包まれ天守閣から逃れ、第三矢倉に逃げ込んだのは淀殿と子の秀頼を含めてわずか28名。包囲されたのは5月8日早朝のことでした。淀殿の元へ家康から自刃を命ずる使者が訪れます。大野治長は、千姫の身柄と引き換えに秀頼の助命を嘆願しますが家康は受けれることはなく、秀頼は淀殿や大野治長たちと共に自害しました。淀殿は49歳、秀頼は21歳と伝えられています。秀頼の子・国松は逃亡はしたもののその後捕らえられて殺害され、娘・天秀尼は千姫の働きかけもあって仏門に入ることを条件に助命されました。豊臣家の天下は幕を閉じ、250年に渡る徳川家の天下が始まりました。